このブログ運営者みなづき村長です!
今回は古代中国の思想書『老子』を紹介パート②です!
前回の記事はこちら↓↓↓
重要ワード解説
重要なキーワードを先に解説しておきます!
無為自然(むいしぜん)
無理に物事を動かそうとするのではなく、あるがまま、自然のままに任せることをいいます。
無為というのは何もしないことではなく、作為的なことをしないこと。
一方、自然とは山や川といった自然物のことではなく、自ずから然り(他から何の影響も受けることがない状態のこと)を意味しています。
例えば春夏秋冬といった季節の変化。川の流れや潮の満ち引き、月や太陽などの天体の動き。これらは人為的に操作されたものではなく、大自然の法則によって支配されています。
これと同様に、私たち人間も自然の一部としてその采配を受ける運命にあるため、作為的なことをせず、あるがままに生きることが大切だと考えたのです。
小国寡民(しょうこくかみん)
著者の老子が説いた理想郷のこと。
住民の数が少ない小さな国家のことをいいます。領土が広く生産力や軍事力の高い巨大な国家が理想であるという見方とは反対に国家のサイズをコンパクトにし、人間が使用する道具も必要最低限にすること。さらには地域間での交流も避けるべきだと主張しました。
余計な財産や道具、余計な情報や余計な人との交わりがあるから人間の欲望は余計に刺激されてしまう。自分たちの生活や文化に満足できなくなって余計な争いをし始めるのではないか。だとすればそれらを排除した小さなコミュニティを作り、余計な刺激を受けることなく心豊かに慎ましく暮らせば、争いのない理想郷が生まれるのではないかと考えた訳です。
メインテーマ「最も理想的なリーダー」
老子の教えに以下の言葉があります。
賢いものを尊重しなければ
民は争うことがなく、
貴重品としなければ
民は盗むことがなくなる。
また、欲望を掻き立てるようなものを見なければ
民の心は乱されない。
したがって、聖人が国を統治する場合は、
民を無知無欲にすることである。
リーダーの役割である人間が、
特定の人だけの評価や報酬に偏らせると、
周りの人間はそれを求めて争ってしまいます。
つまり、一定の価値観を示すことはせず、
民衆を無知無欲にして、
悪い知恵が働かないよう努めるべきである。
という訳です。
一見、無知無欲にする行為は
愚民政策のように思えますが、
元々は無知無欲であった
人間本来の姿に立ち返らせることで
争いのない平和な国家を再構築するための
考えであったとされています。
老子は言います。
天下を取ろうと欲し
作為的な行動を取る者がいるが
そんなことで願いは成就しないだろう
なぜなら天下とは神聖な器であり
色々と企てたところで、
どうにもならないからだ。
何かを成そうと動く者は、
かえって天下を壊す。
何かを捕まえようとする者は、
かえってそれを失うだろう。
つまり人の住む国ような世界とは
多様性に富む神聖な器であるため、
それを作為的に扱おうとすれば
壊れてしまいます。
統治を行うリーダーは
道に従った無為の統治を志すべきである。
という話です。
老子は言います。
世の中は、
禁止事項が多くなればなるほど
人民は貧しくなり
武器が多くなればなるほど
国家はますます混乱し
巧みな技術を持てば持つほど
邪悪なものが生まれていく。
ゆえに聖人はこう言う
私が何もしないと
人民は自ずと治まる。
私が事を起こさないと
人民は自ずと豊かになる。
私が無欲であると
人民は自ずと素朴である。
最も理想的なリーダーとは
部下から意識されない指導者のことである。
その次は
部下から愛され親しまれるリーダー。
その次は、部下から恐れられるリーダー
最低なのは、
部下から馬鹿にされるリーダーである
指導者が悠然とした態度を示し
余計なことを口に出さなければ
仕事は上手くいくものだ
そして人々は
自分がやるべくしてやったと
言うのである。
部下から意識されないリーダーとは、
何もしない。ということでありません。
人の見えないところで、
恩恵を施したり、
トラブルを防いだりしている。
その一方で賞賛も感謝もされず、目立たず、
それでも常に悠然と構えているような人物が
最も理想的で天下を治めるにふさわしい
聖人である。という訳です。
権力者は、自分に従わないものを排除したり
強制したりするものですが、
老子は、人間の多様性を受け入れ、
自主性を尊重することが「道」の在り方だと
考えていました。
老子は言います。
器にいっぱいの水を注ぐように
何事も満たし続けることは
やめた方がいい。
刃物を限界まで鋭くしようとすれば
かえって折れやすくなるだろう。
これと同じように、
富も増えれば増えるほど
それを守らなければならないと
心配事が増える。
地位や名誉に、こだわればこだわるほど
自分の身を滅ぼすことになる。
従って、自分の仕事を
成し遂げたと思ったのなら
すぐに身を引きなさい。
それこそが天の道である。
家族や友人、
自分自身の健康などを犠牲にし、
命を削る思いで到達した
地位や名誉のポジションを手に入れた場合、
出来る限り長くとどまっていたいと
考えるのはある意味自然なこと
なのかもしれません。
ですが、明確な引き際を設定できず、
ダラダラと居座り続ければ、
次の世代から恨まれたり、
思わぬ失敗を引き起こすことは
よくあることです。
成し遂げた。と自覚がある時に
潔く身を引くことが大切であると
老子は言います。
欲望が邪魔となり、
一度手に入れたものを
人間は簡単には手放せません。
老子は言います。
他人のことが分かる者は
優れた人物だが
自分のことをよく分かっている者は
さらに優れた人物である。
また、人に勝つ者は力のある人物だが
自分に勝つ者は、
本当に強い人物である。
足るを知る者は富み、
努力を続ける者は既に志を果たし
自分本来の在り方を失わない者は
長く生き残ることが出来る。
獲得と損失は表裏一体の関係にあるため
たくさんのものを得れば
その分だけ、
たくさんのものを失うことになるだろう。
人間にとって最も大切なことは何か
それは、自分の命である。
命さえあれば、もう充分満足だ。
そう思って生きていれば
長くこの世を楽しめるのである。
自らを客観的な視点で理解することができ
欲望に支配されることなく
自分を保つことができる人物を
優れていると評価しています。
人間は自分の欲望が叶えられると
しばらくは満たされていると感じますが
その後、また同じような気分を味わいたい
もっと大きなものを得て
もっと満たされたいと
さらに強い欲望に心が
支配されてしまいます。
この欲望に抗うための方法として
有名な考え方である
「足るを知る」を世に広めました。
足るを知るとは
終わりのない欲望を100パーセント
満たそうとするのではなく
自分にとっての適量が満たされていれば
もうこれで十分だと考え、
今の生活や自分の状態に満足しながら
バランスの取れた状態で
幸せに暮らしましょうという訳です。
ただ、現代は欲望が刺激されやすい
消費社会にあるため
自分が本当に求めているものや
自分にとっての適量が
捉えにくいという問題点があります。
そのため、時には外側からの刺激を断ち
現在、抱えている欲望や
その背景にある感情について
じっくり考える時間が大切なのです。
しかし、そのように隠遁者のごとく
隠れて暮らさなければならないような状態で
この厳しい現実社会を本当に
生き抜いていけるのかと
心配になりそうな話です。
そこで、次のパート③(最終回)では
老子の真骨頂である考え方、
最弱にして最強の「水の思想」
水のような生き方について
話を進めて参ります。
4000字を超える大変長い記事でしたが、
ここまで読んでくださった方
本当にありがとうございました。
ぜひ次回の記事でもお会いしましょう!
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